LOGIN慈寧宮へ向かうことになった。 ただし、老医官様は最後まで反対した。「鈴花は行かせません」「行きます」「行かせません」「太后様の言葉です」「だから行かせません」 老医官様は、私の前に立ちはだかった。 背は高くない。 武官のような体でもない。 けれど、なぜか皇帝陛下より怖い時がある。「あなたは今日、父君と白啓と皇后様の封書と瑠華妃様の記録を聞きました」「はい」「普通の人なら三日寝込む量です」「普通ではないので」「倒れる人は皆そう言います」 また言われた。 蘭々が横で深く頷く。「その通りです」「蘭々は私の味方では」「味方だから止めるの」「では、景黎様」「俺も止める」 裏切りが早い。 景黎様は腕を組み、入口の柱に寄りかかっていた。 肩の傷を庇っている。 自分も本当は休むべきなのに、私を止める顔だけは立派だった。「景黎様も怪我人です」「俺の話ではない」「では景蘭様は?」 景蘭様は医療房の寝台の上で、こちらを見ていた。 顔色は悪い。 だが目だけは妙に冷静だ。「私は行きたい」「ほら」「でも、鼠は寝ていた方がいい」「景蘭様まで」「私は性格が悪いので、君だけ行けない不満を味わうのも少し面白い」
白瑛が持ってきた写しには、若い静寧様の署名があった。 瑠華妃様へ還子茶を飲ませる許可印。 太后様だけではない。 皇后様になる前の静寧様。 当時はまだ、上皇后の補佐として後宮の帳を預かっていた少女。 その名が、景蘭様の母を壊した茶の記録に並んでいた。 私は、匙を持ったまま動けなかった。 蘭々が私の口元まで運んでいた粥も、そのまま止まっている。「……食べる?」 蘭々が小さく聞いた。「今ですか」「いや、今じゃないかも」「はい」「でも匙、戻すとこぼれる」「では置いてください」「うん」 蘭々は妙に慎重に匙を器へ戻した。 粥の表面に、小さな波が立った。 その波を見ていると、吐き気が少し落ち着いた。 床や水を見る癖は、こういう時に役立つ。 人の顔を見続けると、顔の中に引きずり込まれる。 床を見ると、少しだけ距離が取れる。「静寧様が……?」 景黎様の声が低くなった。 景蘭様は、寝台の上で目を開けている。 白啓の話で、母の記憶を壊されたばかりだった。 そこへ、皇后様の署名。 景蘭様の顔には、笑みがなかった。 皮肉も、芝居も、どこにもない。 ただ、目の奥が冷えていた。「読め」 景蘭様が言った。 白瑛は少し迷う。「景蘭様」「読め」 今度は命令だった。 けれど、強さよりも、切迫し
白啓は、まるで昔話でも始めるような顔で言った。「景蘭殿下の母君。あの方は、白家の茶で壊れた最初の皇族の女でした」 最初。 その言葉が、庭の空気を変えた。 還子茶。 血を眠らせ、記憶を曇らせ、母の声を近くする茶。 皇帝陛下の血を弱らせ、皇族の子を奪い、偽りの皇子を入れるために使われた茶。 その最初の犠牲が、景蘭様の母。 景蘭様が、母も皇后様も太后様も信用しなかった理由。 人が壊れる瞬間ばかり見たがった理由。 その根が、また白家の帳面から出てきた。「名は」 景黎様が問う。 白啓は笑った。「瑠華妃」 景黎様の顔が、目に見えて強張った。 皇帝陛下も、息を止めた。 私はその名を知らない。 けれど、二人の顔で分かった。 消された名だ。 宮中で口にされなくなった名。 帳面にしか残らなかった名。「瑠華妃様は」 皇帝陛下が、低く言った。「病で亡くなったと聞いている」「ええ。病でした」 白啓は、穏やかに答える。「白家が作った病です」 蘭々が露骨に顔をしかめた。「何その言い方」「事実だよ、洗衣局の娘」「名前で呼んでください」「蘭々」「嫌なおじいちゃんに名前で呼ばれるのも嫌」「難しい娘だ」「簡単に呼ばれたくないだけです」 こんな時でも蘭
白啓は、捕らえられても穏やかに笑っていた。 庭の杏の木の根元で、両腕を兵に押さえられ、香筒を取り上げられ、逃げ道を塞がれている。 それでも、負けた男の顔ではなかった。「さあ、鈴花。白家の帳面を壊すか。皇后の新しい帳面になるか」 老人の声は柔らかい。 柔らかいからこそ、耳に残る。 白家は、たぶんずっとそうやって人を絡め取ってきたのだろう。 怒鳴らず、脅すだけでもなく。 甘い香を焚き、やさしい言葉を置き、人に「自分で選んだ」と思わせる。 母を奉公へ出すと言った時も。 父に白啓の名を貸した時も。 私を「よく育った目」と呼んだ今も。 私は柱を握ったまま、白啓を見た。「皇后様の新しい帳面とは、何ですか」「言っただろう。女を売る家を壊すための帳だ」「帳で人は救えますか」「帳がなければ、人は最初からいなかったことになる」 白啓は笑う。「売られた女。消えた女。名を変えられた女。腹を貸された女。子を奪われた女。帳に名がなければ、誰も探さない。名があれば、値がつく。値がつけば、取引できる。取引できれば、取り戻せることもある」「値がつくから売られることもあります」「そうだ」 あっさり認めた。「帳は刃だ。握る者次第で、縄を切ることも、首を切ることもできる」 その言葉は正しかった。 正しいから、腹が立つ。 白家の女帳は、人を売るためにあった。 でも、その帳があったから、母が売られたことも、父が金を受け取ったことも、私が観察対象にされたことも分かった。 帳がなければ、父はもっと言い逃れただろう。 母も、自分が売られたことを知らな
私は、毒の上で育った。 父は、そう言った。 私が眠った部屋。 母が粥を炊いた台所。 父が私を肩車した庭。 その下に、白家の地下香庫がある。 還子茶。 女帳。 梁氏の本帳。 慈寧宮へ流れた金。 皇后様を殺す毒の、もっと古い根。 それらが、私の家の下に眠っている。 私はしばらく、何も言えなかった。 言葉が喉の奥で詰まった。 怒りでも、悲しみでもない。 もっと気持ちの悪いものだった。 自分の幼い記憶の底が、急に腐った水で満たされるような感覚。「鈴花」 蘭々が、私の肩を掴んでいた。「息して」「しています」「してない顔」「顔で呼吸は」「屁理屈言えるなら大丈夫」「大丈夫ではありません」「うん。じゃあ、大丈夫じゃないまま息して」 蘭々の言葉は、時々乱暴で、時々変に正しい。 私は息を吸った。 白家の古い帳面の匂い。 父の衣についた香の匂い。 母の薬湯の匂い。 洗衣局の灰と湯気の匂い。 全部が混ざって、吐き気がした。「地下香庫とは何ですか」 私は父を見た。 父――柳昭は、縛られたまま座らされている。 白啓と名乗っていた男。 死んだはずの父。 その顔は、少し楽しそうだった。 自分がまた場の中心にいることを、楽しんでいる。 そういう顔だった
父が生きているかもしれない。 その言葉は、毒より遅く効いた。 最初は、ただ頭が白くなった。 次に、胸が冷えた。 それから、思い出が勝手に動き出した。 市場で買ってもらった甘い餅。 肩車された時に見えた屋根瓦。 母に叱られている父の横顔。 私の膝についた泥を、笑いながら払ってくれた手。 その手が、母を白家へ売った。 その手が、母が戻ってきた時、さらに銀を受け取った。 その手が、私を「観察対象」として白家の帳面に残した。 優しい記憶が、嘘だったとは思わない。 でも、優しい記憶だけで父を守ることもできなかった。 人間は、本当に面倒だ。 優しかった人が、ひどいことをする。 ひどいことをした人が、優しく笑ったりする。 だから、記憶は刃になる。 私は寝台の上で、じっと天井を見ていた。 老医官様の命令で、起き上がることは禁止。 会議も禁止。 尋問も禁止。 移動も禁止。 何なら、考えすぎも禁止されそうな勢いだった。 けれど、考えるなと言われて止まるなら、人は苦労しない。「鈴花」 母の声がした。 隣の寝台からだった。 細い声。 まだ喉が痛むのだろう。 でも、さっきよりはっきりしている。「寝ている?」「起きています」「でしょうね」「なぜ分かるのですか」「あなたは昔から、寝たふりが下手だった」 そんなことを言われると、困る。